防災・減災への指針 一人一話

2014年01月20日
民生委員やボランティアとして市民の中へ
多賀城市 向山地区民生委員
佐治 誠一さん
多賀城市 大代地区民生委員
白濱 宣子さん

発災直後の行動

(聞き手)
 発災直後には、どちらにいらっしゃったのですか。

(佐治様)
 発災直後は自宅にいました。揺れが落ち着いてから、要援護者のリストを持って要援護者の各お宅を回り、安否確認をしていました。対象は8名でしたが、そのうち2人は既に避難されていたらしく、会う事が出来ませんでした。残りの方はご自宅におられたり、近所の知り合いの家に避難されていたりしていました。

(聞き手)
佐治様のご自宅は大丈夫だったのですか。

(佐治様)
車庫の塀が崩れて、壁にひびが入ったくらいです。家の中の仏壇なども倒れましたが、津波の被害は受けていません。

(聞き手)
白濱様の発災直後の状況について、お聞かせください。

(白濱様)
 私は多賀城にある会社にいた時に地震に遭いました。
当時、主人が、自宅近くの恵愛ホームにショートステイしていましたので、そこに向かいました。
主人は無事でしたので、施設の方にお願いして、今度は要援護者の人たちや一人暮らしの方の所を回りました。
津波が来るという予報を聞いていましたが、どの程度の高さなのかわからないので、ひとまず地盤の低い地区から回りました。そこに行ったところ、皆さん、最初は逃げようとしなかったのですが、誰かが、「必ず津波が来るから逃げろ」と叫ばれたので、高い場所に避難させました。津波はその後に来たそうです。
 その後、今度は比較的地盤が高い地区にある県営住宅に向かいました。そこに一人暮らしの方が多くいるのです。県営住宅では箪笥などが壊れ、ブラインドが落ち、もう大変な事になっていたので驚きました。住んでいる方たちは、階下へ下りてきていたので、安否確認しやすかったです。
 そして、大代東区集会所に行くようにと伝えました。
本来は多賀城東小学校が大規模指定収容避難所になっているのですが、大勢の人がいる避難所よりも近くの集会所避難する方が良いと思ったのです。
区長さんを始め、交通防災課長さんなどが手回しをしてくださったので、安否確認などもうまく出来ました。

(聞き手)
 集会所に地区の方が集まっていたのですか。

(白濱様)
 当日は180人くらいが集会所に集まりました。狭い所だったので、寝るにも足を伸ばせないほどでした。3日くらいはそこにいて、食べるものも皆で持ち寄っていました。避難して来た方々に、暖かく休んでいただくため、役員さん達は寝ないでお世話してくれました。

災害時における要介護者と支援者の繋がり

(聞き手)
 佐治様は、民生委員という立場で苦労された点や今後の課題になる点はございましたか。

(佐治様)
市からの指導の下、災害時要援護者支援制度が施行され、約2年半が経過した時にこの震災に遭いました。
災害時要援護者支援制度の支援者が、この震災でどれくらい援護に回ってくれたのかが気になります。
私は民生児童委員として要援護者全員のリストを持っていたため回れたのですが、本当なら、私が回らなくても支援者の方が回ってくれるような形を作れれば安心です。
今回の震災対応の中で、私は要援護者宅で2名の支援者とお会いしましたが、他の支援者が何人くらい援護に回ってくれたかはわかりません。調べる必要があったと思います。
ですから、これから支援者の方にどのように意識を持って協力してもらうかがこれからの問題点だと思っています。
毎年、防災の日などの催しがありますので、それと連動して、意識付けや訓練によって継続していけるように出来たらいいと思っています。
地区の区長さんと相談している事です。区の組織と一緒に、これから取り組むべき問題だと思っています。
震災前は訓練を行っていませんでしたが、訓練を行って身につけることが必要だと感じています。
 もう一つは自分で動けない方の事です。寝たきりの人をどうするかという事も、併せて区の役員の人たちと考えていくつもりです。

声掛けしても避難しない人をどうするか?

(聞き手)
 震災直後の事で、何か印象に残っている事はございますか。

(佐治様)
 4月7日にまた地震がありましたが、実は、3月11日の時には逃げずに家に居たもので、それを反省していました。
その後、ボランティア活動を通じて、津波の被害を受けた方々の状況を見るにつれ、今度こそ、地震があったら逃げないといけないと思っていたので、4月7日の時は避難しました。
その避難途中で、一人暮らしの80代のおばあさんにも声を掛けたのですが、その方は「逃げない」と言い張るので、せめて津波が来ても大丈夫なようにと2階に上がらせ、私は家族と一緒に避難所に逃げました。
あれだけの震災があって、なお、声を掛けても逃げないという方がいるので、そこをどうするべきかと思いました。
 また、津波の情報があっても逃げなかった人もいたという事がとても気になります。
津波なんて来ないと、頭から思い込んでしまっているのでしょう。
もし、堤防が無かったら、私の自宅も津波被害に遭ったと思います。堤防で堰き止められた事で助かったと考えると、避難しなければいけないのだと、改めて身に染みて感じました。

(聞き手)
 続いて白濱様が印象に残っていることと、民生児童委員として苦労されたこと、今後の課題をお聞かせください。

(白濱様)
 やはり、佐治さんが言っていたように「早く逃げる」という事です。私は早く逃げようとは全然考えず、それ以上に、要援護者の方や一人暮らしの方の所に早く行かないといけないという考えだけでした。
また、砂押川の流れが凄くて、私も皆さんも外で見ていたのですが、船がぶつかり合っていて恐ろしいと実感しました。他の方たちもそう思った事でしょう。

それぞれの技能を生かした共助

(白濱様)
 色々とお話を聞きますが、津波が来た所と来ていない所では、避難することに対する考え方にも差があるのではないかと思っています。
 苦労した事としては、各家庭を回ってみて、地震で倒れた物や部屋の整理をどうすれば良いのかが大変でした。
特に、アパートの方たちが大変でしたが、区長さんや地区の災害部長さんに協力して頂きました。
 誰しも震災に遭いました。
ですから、その中で自分に出来る事、例えば大工さんや料理の出来る人など、皆さんの特技を発揮して、協力して頂ければいいと実感しました。
うちの区ではそれがうまくいきまして、大工さんや男の人達が転倒した家具を直してくれるなど、協力してくれました。
避難所では毎晩会議を開いていて、その中で町内の事を話し合い、どこに行って何をするか、前日にじっくりと話し合っていました。
そのお陰か、スムーズにいったので、とても喜ばれました。
会議は私と町内会長さんと防災に取り組んだ組織の方が中心となって、開催しました。

(聞き手)
震災前に、集会所に備えていたものがあれば、教えてください。

(白濱様)
うちの集会所は石油ストーブが2台あって、石油もたくさん入っていましたので、暖かいところへ避難することができました。今でもしっかりと備えています。

(聞き手)
食糧はどうされていたのですか。

(白濱様)
 皆さんに持ち寄ってもらいました。電気もつかないので、冷蔵庫の中のものを持って来て頂きました。
地域には、ガス業者の方もおりましたので、プロパンガスを使えるかどうか見て頂いたので、すぐに使えるようになり、煮炊きが出来るようになりました。水も井戸だったので使えたのです。持ち寄りの量も十分だったので、うちの町内会で多賀城東小学校に避難している人は、自宅に帰るようにと迎えに行きました。

(聞き手)
珍しいですね。では、皆さんで協力して不自由もなく過ごせたのですか。

(白濱様)
 はい、そのうちに給水も始まりましたし。
私が言いたいのは、避難所では市役所の人が何もしてくれないという声も多かったようですが、それよりも自助で、個人で出来る事を考えて実践するのが、これからの避難生活に必要なのではと思いました。避難者の中にも色々と出来る人がいるはずですので、特技を生かしてもらい、そういった方に協力していただく事も必要だとつくづく感じました。

世の中で一番大切だと思う事

(聞き手)
その集会所はどれくらいの期間、避難所として開設していたのでしょうか。

(白濱様)
3週間開いていました。炊き出しなども皆さんが手伝ってくださっていました。子どもたちも、テーブルを拭いて、お膳を並べて、すぐ食べられるようにと、凄く働いてくれました。
その中に不登校の子が3人いたのですが、学校へは行かなくても、避難所には来てくれて、とても良く手伝ってくれました。先生方も子どもたちの確認のために避難所に来るのですが、先生方からは感謝されました。
 また、今の若い子たちは携帯電話が充電出来ない事を過剰に問題視しているようで、充電出来る機械を誰かが持っていると、みんな一斉にそこへ行くのです。
そこで私は「世の中で一番大切だと思うこと」を聞いたのですが、電気だという返答がきました。食べる物はと聞き返してみたところ、「コンビニがあるから何でも売っている」と答えていました。
ですが、コンビニだってこんな震災では何も買えません。水はどうするのと尋ねると、それもコンビニで買えると答えたのです。
今の人たちはコンビニがあればどうにかなると思っている節があります。生活で困った経験がないから、困った時にはコンビニに頼ってしまうのでしょう。
私はその子たちに、水が一番大切なのだという事を教えておきました。水さえあれば何日か生活出来ますし、トイレにも水が必要です。学校のような避難所ではトイレが最も問題になると言っていましたが、こちらはトイレも特に問題はありませんでした。

(聞き手)
トイレ掃除というのは、どのようにしたのですか。

(白濱様)
みんなで協力して掃除しました。

(聞き手)
 子どもたちはそういう時に、自分で進んで協力してくれたのですか。

(白濱様)
 最初はこちらから「これをしてください」とお願いしましたが、一度言えば、次からは自分たちで動いてくれるようになりました。

(聞き手)
 要援護者やご年配の方たちと若い人とが同室にいたと思うのですが、若い人たちは要援護者の方たちにどのように接していましたか。

(白濱様)
みんなお手伝いをしてくれました。初めての体験でしたが、年齢に関係なく動いてくれていました。

変化しつつある地域の特性

(聞き手)
 東日本大震災以前には、どのような対策や備えをされていたのですか。

(佐治様)
 震災の何年か前、宮城県北部地震があった時に、家の屋根瓦が天井ごと傾いてしまいました。リニューアル工事で瓦からトタン屋根にしたのがちょうど震災の前年の事でした。
考えてみると、もしあのままだったら、瓦は全て落ちてしまっていた事でしょう。
また、古い建物だったので耐震工事も一緒に施しましたので、何とか家は倒れずに済みました。対策として言えるのは、強いて言えばこれくらいでしょう。
 後は、民生委員の色々な講習会の中で被災地をあちこち回って勉強させて頂いて、水が大切だという事を聞かされていました。
東日本大震災の時はお風呂を洗っている途中に地震が来たのです。すぐに風呂の栓を閉めて水を溜めてから外に出ました。当時の対処として一番良かった事はこれだと思います。
また、当時は暖房器具も電気を使うファンヒーターだったので、電気が切れてしまうと暖房が無くなってしまいました。隣の家には電気を使わなくても使えるストーブがあったので、それを持って来てもらって、隣の人と一緒に、私の家で震災の夜を過ごしました。そんな事があったので、震災後には、電気を使わなくても使えるストーブを1つ買って、物置に入れています。

(聞き手)
多賀城市の住歴はどのくらいですか。

(佐治様)
 今現在で52年です。19歳の時に多賀城へ来て、それからずっと多賀城住まいです。民生委員は10年目ですが、先輩方はもっと長い間、民生委員を務めておられる方たちばかりです。

(聞き手)
 地域の年齢構成についてお伺いします。高齢者の方の割合は多いのでしょうか。

(佐治様)
ええ、多いですね。65歳以上は31、2名います。全部で400世帯、1100人くらいが住んでいると思いますが、そのうち、要援護者は11人です。もしかしたら、最近また増えたかもしれません。
ているのでしょう。

(聞き手)
この地区は昔から住んでいる人が多いのですか。

(佐治様)
戦時中の海軍工廠関係の住民の方が多いのと、造成して住宅地になってから住んだ方が多いので、生粋の多賀城人は少ないです。
特に私の住んでいる向山は、異動して来た人の割合がかなり高く、高齢化もかなり進んでいます。子どもの数も減っていますし、子ども会もあまり活性化していないようです。

(聞き手)
高校の頃に多賀城に引っ越して来られたとおっしゃいましたが、その頃の多賀城市はどのようなまちだったのですか。

(佐治様)
 ほとんどが田んぼで家が少なく、多賀城駅から当時私の勤めていたソニーが見えました。その会社の周りには畑が広がっていました。

(聞き手)
 チリ津波や宮城県沖地震、水害などの他の災害の経験はございますか。また、それらの経験は今回の震災で活かされましたか。

(佐治様)
 8.5水害の時に、床下浸水を受けました。チリ津波や宮城県沖地震ではほとんど被害がなかったのです。特にチリ津波では、塩釜の被害があれほど大きかったにもかかわらず、多賀城では大した被害が出ませんでした。ですから、多賀城は津波の被害に遭わないという先入観があったのです。

(聞き手)
水害の経験から、今回に活かされた部分はありましたか。

(佐治様)
 水害と今回の津波とでは規模が全く違いますので、比較のしようがありません。水害の時は徐々に水が増えてきて、床下まで来るにも時間がありましたが、津波は一気に来ました。

(聞き手)
 災害の教訓が伝承されて来たかどうかについてですが、ご両親や親戚、近所の方などから何か伝わってきた事はございますか。

(佐治様)
 民生委員の活動の中であちこち研修旅行に行った時に、被害の遭った地域をお訪ねして、そこで教えてもらったりした事を自分の知識として持っているくらいで、親からは特にありませんでした。
今振り返ってみると、民生委員の研修旅行で得た知識が大変役立ったとしみじみ思います。

(聞き手)
 続いて白濱様は、震災前にはどのような備えをされていたのですか。

(白濱様)
 私は主人が要介護者なので、3つの備えをしています。一つ目はおむつ類、二つ目は食糧、三つ目は電池や懐中電灯などで、その3つを玄関と、自分のベッドの下に置いてあります。当日は3つ全てを持ち出せず、食料品だけを持って避難所に行きましたが、ビスケットや乾パンを分け合って食べる事が出来たので、とても助かりました。ストーブは常に石油ストーブがありますので、お湯を沸かしたり煮炊きしたりに使っています。水はいつも1ケース備えています。

(聞き手)
 多賀城市の住歴はどれくらいになるのでしょうか。

(白濱様)
私は40年です。

(聞き手)
 地域の年齢構成がどのようになっているか、お聞かせ頂けますか。

(白濱様)
 数えてみたら、50人くらいが一人暮らしをしています。私の暮らしている大代東地区は県営アパートが5棟ほどありますので、そこに一人暮らしの人が多くいます。子どもも多くいまして、全部で350世帯です。そのうち貸家が60パーセントです。

8.5豪雨の経験

(聞き手)
他の災害、例えばチリ津波や宮城県沖地震、水害などの経験はございますか。

(白濱様)
 もちろんあります。
私は、志引団地にいた時に8.5水害に遭い、床上1メートルの浸水被害を受けました。車も水に浮いて、あちこちにぶつかりましたし、自宅ではコンセントが全て使えなくなりました。津波ではなかったのでじわりじわりと水が来ましたが、8月5日に水害に遭って、12月に初めて自宅の1階に畳を入れました。それまでは長靴を履いて生活していたのです。今回も津波に遭った道路沿いのお宅では皆な畳を捨てていましたが、私も過去に同じ経験をしました。
多賀城市は水害も多いのですが、その頃はまだこの震災と違って備えもなく、水害に対して行政からの支援体制もない時代でした。
会社関係からは色々頂きましたが、市からは塩とマッチがもらえた程度です。なかなか水が引かないので、自衛隊のボートに乗せてもらって買い物に行きました。汚水も一緒でしたので、汚かったですけれど、うちの主人は泳いで買い物に行っていました。親戚が物資を持って来てくれても、水があるので自宅の中に入れないのです。だから、自衛隊の方が受け取って自宅に配達してくれる形を取りました。
 その後、地震にもあったので大代に引っ越しました。志引は地盤が非常に弱いので、地震の時は大変でした。それを教訓として、高い所に引っ越したのです。市でも、水害が起こってからポンプ場を沢山作りました。この震災で志引に浸水被害がなかったというのは、不幸中の幸いだったのではないでしょうか。

(聞き手)
災害の教訓は伝承されてきましたか。

(白濱様)
特に聞いていませんでしたが、こういう災害があったので備蓄を必ずするようになりました。常に3日分くらいの食糧を備えています。備えあれば憂いなしという事で、やはり備えておくしかないのだと思いました。これは自助として非常に大事です。それは今回、大いに訴えたい部分です。

参加者が楽しめる防災訓練

(聞き手)
 地区での防災訓練や、イベントの開催状況はどのようなものなのでしょうか。

(白濱様)
 防災訓練を年に二回やっていますが、地区の防災担当の役員さんたちがとても良い案を出してくださいます。住民の繋がりが多くなると考えて、役員さんたちで企画して、イベントやお祭りも沢山やっています。先日は餅つき大会をやりましたが、参加者が凄く集まりました。

(聞き手)
 昨今、住民間の繋がりがなかなかできにくいと言われていますが、そのあたりはどのように感じていますか。

(白濱様)
それも一理ありますが、ちゃんとやってくれる人が多くなり、年齢に関係なく、参加してくれる方が増えています。回覧板を回したり、歩きながら実際に呼びかけたりしています。一度来れば楽しいですから、来年もまた来てくれるのです。
そうしてコミュニティを常に活発にしてある事が地域の輪に繋がっているのでしょう。

(聞き手)
 では佐治様、震災前後の地域の変化についてお聞かせください。

(佐治様)
 東日本大震災後、一人暮らしの方が、親戚や息子さんの所などに相次いで引っ越していってしまい、空き家が増えました。当時はテレビでもかなり放送していましたが、空き巣の問題がクローズアップされまして、地区の自治会で夜警をする事になり、男性を中心に夜警団を組んで、1週間ほど見回りをしました。

(聞き手)
夜警をして、いかがでしたか。

(佐治様)
 いくつかルートを決めて1グループ数人で回りました。少し怖かったのが正直な感想です。ですが、見回る事によって繋がりを感じる事が出来ました。町内会で、いろいろ企画をして行事を行っています。先ほど白濱さんも言われましたが、こちらでも月に1回、資源回収をしています。そこで得たお金は夏祭り抽選会景品に使用しています。子どもたちもとても楽しみにしてくれていて、お祭りを盛り上げてくれます。
 向山地区は防災組織や活動がないので、作ろうという話し合いも何度かありましたが、そこから進みませんでした。
また、プレハブの防災備蓄倉庫を頂きまして、今まで備蓄していた防災用品をそこに収納する事になっています。そういった事も含めて、これから組織を作り、最初は顔合わせ程度の活動でも、少しずつ輪と内容を広げていくしかないと思っています。

(聞き手)
佐治様から見て、住民の繋がりはいかがですか。

(佐治様)
 良い方でしょう。特に創設されて24年で60歳から80歳代の男性約40人で構成されている向山親睦会が、会や町内会の行事に積極的に参加し、活動しています。
しかし、この会の新規加入者が少なく、年を重ねるごとに高齢化し、会員が減少しているのが問題になっています。
 町内会で「いきいきサロン」を月一回、向山集会場で開催し、多賀モリ体操など、健康・看護・社会的なテーマで体と頭と口を動かしています。
12月のクリスマス会では大正琴を習っている人達が先生に来てもらい、演奏を聴き、琴の伴奏でナツメロを歌い、ケーキにコーヒーと楽しいひと時を過ごしました。これには普段顔を出さなかった人も来て、世話役の人達は喜んでいました。
 このサロンに親睦会員が多数参加するので、講師の方々が男性の多いことに驚いていかれます。
参加しない人、特に一人暮らしの高齢者がどんな企画だときてくれるのか、また集会場まで来ることも難しい人もいるなど、いろいろな問題がありますが、多くの人と相談しながらやりたいと思っています。

(聞き手)
若い方の参加はいかがですか。

(佐治様)
 少しずつですが、サロンには若い人も顔を出してくれるようになりました。中には親子で参加してくれる方もいます。

「緊急医療情報キット」の配布をとらえたコミュニケーション

(聞き手)
佐治様の地区では、隣に誰が住んでいるかわからないといったような事はありますか。

(佐治様)
 アパートには、学生さんが多く入っていますので、アパートではそういった事が結構あります。
また、震災で被災して引っ越して来られた方もいます。
平成24年4月から、救急医療情報キットを配りました。このキットは65歳以上の一人暮らし、二人暮らしのご年配の方や、家に重篤な病気を持っている人、寝たきりの人で希望される方などの希望者に差し上げました。市から頂いた住民リストと社会福祉協議会からもらった住宅地図を見比べながら、対象者の家を数多く回る事が出来ましたので、お顔を拝見しながらお話出来たのは良かったと思っています。
ですが、若い方はその対象外でしたので、若い方とは会ってお話する機会がなかなかありません。

(聞き手)
 多賀城のこれからの復旧、復興に向けてのご意見はございますか。

(佐治様)
 今、話題になっていますが、仮設住宅の入居者に、早く普通の住宅に移って頂ければと思います。
多賀城市でも災害復興住宅を作っていて、今年完成だという事ですが、もう少し早く動いて頂ければ幸いです。
色々と事情があったのでしょうが、3年は長く感じてしまいます。不便な生活をしている仮設にお住まいの方を早く移して頂きたいのです。私が直接関係している訳ではありませんが、民生委員の中には仮設住宅を担当して回っておられる方もいますので、その方は大変だろうと思っています。

貞観地震・津波のPRを強化

(聞き手)
 今回の東日本大震災の経験から、後世に伝えたい教訓はございますか。

(佐治様)
もう既に言われている事ですが、やはり高い所に逃げる事です。その一言に尽きます。命あっての物種です。
ただ、高い所がない地域の人にこういう事を言っても、何処に逃げればいいと言われかねませんので、平地には高台を作るなどの対策も必要でしょう。多賀城は、海岸からずっと平地続きのまちですから、そういう事を考えないといけません。
私は福島県の猪苗代町の生まれで、小さい時から津波なんて気にしてもいませんでした。多賀城に来て、ここで50年住んで初めて、津波の恐ろしさを知りました。昔の新聞記事で話には聞いていましたが、実体験は本当に初めての事でした。
貞観地震のこともありますが、そうした史実を事前に知っていたら準備できていたかもしれませんが、震災後に知ったので、何とも言えません。歴史を勉強している人が、もっと声を大きくしてもらえればと思いました。多賀城市は歴史のまちなので、過去のことをもう少しPRしてくれると助かります。

(白濱様)
うちの地区にも歴史に詳しい方が一人いるので、研修会をしてもらいました。その時には、ここまで津波が来たという話が出ました。

(佐治様)
 私としては、やはり命が一番です。もうそれしかありません。

(白濱様)
 私もそれが一番大切だと思いますが、自分で3日分の備えを持って高い所に逃げる事も必要だと思うのです。共助は後からくるものであって、最初は自助です。私も以前の宮城県沖地震や水害が訓練になったので、今回は備蓄を持って逃げる事が出来ました。民生委員として皆さんを助けたのも、自分で荷物を背負って逃げ延びた後の事でした。

(佐治様)
 私は、当時は家の中を見回してから、要援護者安否確認のため、すぐ家を飛び出してしまいました。無我夢中で、自然に動いてしまいました。
本当はもう少し行動に区切りをつけて、順序立てて動ければ良かったのかもしれません。

「全員を助けないと」という強迫観念の問題

(聞き手)
 自分の事を顧みる前に、支援に行かれたのでしょうか。

(佐治様)
津波に遭った所にいたらどう動いていたかはわかりません。そちらにいても同じように動いてしまった気がします。津波が来るという感覚はなかったので、津波が来た場所にいたら、被害を受けていたかもしれません。
それから、全国展開で、民生委員は、災害時に一人も見逃さない運動を行っています。
ですがそれが頭の中に入り込んでしまって、全員助けないといけないのだという使命感に駆られてしまった部分があるのです。
地震の後に講習会がありましたが、多賀城市社会福祉協議会の飯田会長から「自分の命が大切だ、命があった上での民生委員の活動なのだ。」と言われました。
 それからもう一つ話させてください。
私が市のボランティアセンターで、要請のあった被災者宅を事前訪問して、内容確認とそれに伴う人員数・資機材の予測をして、次の工程にその情報を流す仕事をしていた時に感じたことです。
 このボランティア活動には、北は北海道から南は沖縄まで、大勢の人に長期間にわたって参加してもらい、被災された方々が多く助けられました。
当初は電車も動かず、道路にも障害物があり、宿もお店もコンビニも閉まっている中、泥だらけになって助けてもらったことは忘れられません。
今でも思い出すと、感謝の気持ちで一杯になります。
この後、どこかで大災害が発生したらどうするか。70代の私は足手まといになりますし、遠い所に行く体力も無く、無理だと思います。
しかし、助けられた多賀城市民は、ぜひ、ボランティアに参加してもらいたいです。
自主的に篤い心を持った個人グループを組むと参加しやすいと思いますし、市のボランティア行動隊で若い人が被災地に行って恩返しをやってほしいですし、こういうことを引き継いでもらえることを希望します。

(聞き手)
 他に何か、話しておきたい事はございますか。

(佐治様)
 これもボランティアの事ですが、困った事に、ボランティアでは出来ない仕事がありました。床下の泥かきです。と言うのも、洋間は床をはがすことができないのです。
ボランティアの中には器用な方もいて、潜って泥を取れる人もいるのですが、ボランティアは中高生から女性、お年寄りまでいますので、できる作業は制限されます。
洋間の床を簡単にはがせる構造になれば、災害時に、もう少し楽になるのではないかと思いました。
市の職員の方たちは一生懸命働いてくれました。あれが当たり前なのかどうかはわかりませんが、市の職員の方は恐らくオーバーワークだったと思いますので、当時の活動には感謝しています。

(白濱様)
 佐治さんも言っておられたように、多賀城市の職員の方たちは、自分も被災しているにもかかわらず最後まで一生懸命に動いてくださって、本当に感謝しています。
仮設住宅に入っている人や被災した人も、自分の事だけではなく、頑張ってくださった方たちの事も考えると、多賀城市はもっと良くなるでしょう。
影から支えてくれる力がいくつも集まって今の暮らしがあるという事を、改めて自分なりに考えました。
 また、ボランティアセンターを立ち上げた時から閉鎖まで、社会福祉協議会の飯田会長さんは1日も休まず、皆さんのために指示してくださっていたので、その事にも感謝の気持ちを持ってほしいと思います。